音を見せる・音を魅せる

〜伝統演劇から学ぶもの〜

辻 亨二 VS 八板賢二郎1996年収録)

   

音を描くことが音響家の仕事


八板:本日は音で絵を描いたり、音を使ってお客さんに芝居を見せたりするためのいろいろな工夫などのお話をできればと思っているのですが・・・。

 

辻:音を見せるということは難しいことで、お客さんは芝居を見に来るのですが、音を見に来ることにもなるわけです。昔は割とゴテゴテと油絵を塗るようなところがあったのですが、最近は心境的にも年齢的にも、やや水墨絵に近くなってきています。

 

八板:若いときは観客に「こっち(音)を向け」というようなことをやってしまいますが、しかし音が芝居にうまくハマった時が一番良い状態なのですね。

 

辻:芝居の効果というのは、あくまでも味の素なのです。音にも色々な流派があって、音をこれでもかと聞かせる人たちがいます。その一方、逆に音を引っ込める人もいます。どちらが良い悪いということではないのだけれど、私が辿ってきた演劇の中では、やはり音だけを聞かせるのではなく、あくまでも絵を見て観客がそれに付随して、味の素的に良く聞こえればいいのだと思います。榎本滋民(作家・演出家)さんと一度論争したことがあります。「赤ひげ」という作品の中で、山本周五郎は「風が回るように吹いて長屋のドブ板が鳴る」という表現を文章で行い、黒沢明は「絵でつむじ風のような風」を表現している。榎本さんに、ではその風をどうやって表現するのかと聞いたら、「音だ」というので、私は「音ではなく、視覚的な表現はできないのか」と申し上げたのです。しかし、風を視覚的に出すのはなかなか難しいことです。

 

八板:音で表現できるものを視覚で表現させ、視覚で表現すべきところを音で表現するということをしたらおもしろいですね。これが芸術です。回転したつむじ風とか、言葉では簡単に言えますが、これを「音で見えるように」するんです。このような音作りは大変だと思います。

 

:北條秀司先生の演出のとき、寺の鐘の音を出したら「それは違う。遠寺の鐘と(脚本)に書いたはずだ」と言われたので、「遠くのスピーカから出しているから遠寺の鐘だと理屈を言ったことがあります。すると「遠寺の鐘はあんなに響いた音ではない」と言われました。確かにそうなのです。スピーカの音量を絞っても駄目なのです。そうなってくると歌舞伎の「本釣り(ほんづり)」や「どら鐘」というのはうまくできています。近くの鐘は「本釣鐘」を用いて、遠くの鐘は「ドラ」を使用するのです。

 

八板:私たちは「うだるように暑い昼下がりの風音」「女の悲鳴のような風音」「乾いた砂漠の風音」「寒々しい鐘の音」「凍えそうな犬の遠吠え」などと台本に書かれた難しい音を作らなければならない。大変なことです。しかし、私たちの仕事は、音を作って観客席から見えない舞台袖の方角や観客席の壁の裏側の方に、教会や駅などがあるかのように見せることもできるという凄さがあります。

 

音響の楽しみ

 

八板:音で泣かせたり笑わせたりすることはできます。音楽や効果音の盛り上げ方、つまりフェーダ・テクニックで観客を感動させることもできます。

 

:だから面白い。それだから音響の仕事をやっている。エンディングを出して拍手が来たら、「俺のエンディングで拍手が来たのだ」と喜びがあります。最後に「音響」がいいカッコできる。オートフェーダ(メモリー)で音量を上げ放しにしているのでは、音響の面白味がないだろうと思うのです。やはり少なくとも、フェーダだけは手で操作して欲しいですね。

 

八板:台詞に合わせて音を上げ下げする「活け殺し(いけごろし)」という操作テクニックは、俳優と一緒にオペレータも台詞をしゃべっていますよね。《活け殺し=役者の演技に合わせて音を強めたり弱めたりする操作方法》

:悲しい場面で、音を出しながら自分でも泣けるくらいの気持ちにならないと面白くないです。要は「芝居心」がなければ通用しないということです。

 

舞台の音とは、生とは、リアルとは

 

:私がこの世界で始めた頃は「生音(なまおと)」が正道の頃で、生音でなければ効果音はダメだという時期でした。しかし、私には「何を言っているんだ」という気持ちがあったわけです。例えば「虫」にしても本物の虫の声を録音した方がいいと思うし、花柳章太郎(劇団新派の名優)さんもそれを聴いて、「かわいいね」と言ったくらいですから・・。しかし、芝居でそれを出すと怒られるということは、結局、それは芝居に合わないということです。確かに本物の虫ではセリフの間に合わないですね。つまりセリフには「テンポ」とか「リズム」がありますから・・・。

  • 生音=実音を録音したものではなく、実際に笛や道具などを用いて人工的に波や雨、小鳥、虫などの効果音を発すること。

 

八板:本物の虫は芝居をしてくれませんから、やはり人間が虫の声を作らないと芝居になりません。セリフは日常会話ではないので、そこにリアルというかナチュラルな音を重ねても調和しないですね。だから、録音を用いるとしても、そのことを理解して製作すべきです。

それと、テレビとか映画では、日本だけのことかも知れませんが、セリフを日常会話的にボソボソとしゃべらせてバックに絶えず音楽を流して、音楽でドラマを盛り上げていることが多いと思います。舞台のセリフはリズムがあって、心地よく観客に聞こえないといけません。効果音や音楽も、それにピッタリとハマらないと心地よくならないと思います。

 

:そうです。つまり舞台とテレビの相違は何かというと、テレビでは音が全部後付けですから、役者は効果音を聴いて演技していません。ですから耳も傾けないし目も向けない。キッカケの音で反応して動くというところは、そうしておいて後で音付けするということもあるだろうけれど、舞台の場合はそうではなく、音とやり取りをしながら演技するわけです。

 

八板:音に反応して芝居も変わりますからね。

 

:そうです。音に反応するということが非常に大きなことなのです。この違いというのは作品の仕上がりに大きく影響します。

 

八板:観客に聞こえないレベルで役者の為に音を入れることもありますよね。例えば鶏の「コケコッコー」は巧く出しても観客は笑います。クライマックスで笑われたのでは役者はやりにくい。それで(先代の)中村勘三郎さんが「もっと遠くで、お客に聞こえなくていいから、僕だけに聞こえればいいから」と言っていました。このように役者に演技させる役目の効果音もあるのです。

 

:つまり、音が芝居に役立てばそれで良いと思うのです。音を用いて、芝居にどのように息を吹き込むかですよ。

 

八板:それは音響オペレータも、芝居をちゃんとできないと駄目だということでしょう。私も生音を始めた頃は、やはり役者がやる生音には敵わないと思いました。当たり前のことですが、彼らは演技ができるということです。決してリアルな音では出ていないが、気持ちが入っているから、実にいいのです。ただリアルにやればよいというのでは、ものまね芸の世界になってしまいます。

 

:そうです。だからやはり人間が創らないと無理なのですよ。ただ、この頃はあまりにもかけ離れた「生」が多いでしょう。例えば赤児の泣き声などでも、うまい人もいるけれど、ヘタだと客さんが笑うのですよね。これはやはり芝居にとっては効果にならない。どうせやるならもっと巧く、それでなければいっそのこと録音の赤児の声をうまく創作して、鳴らした方がいいのではないかと思う場合もあります。

 

八板:今は電子技術が発達しているから、一声ずつ細切れにして出すこともできるし。

 

:だから、その意味でも機械も駆使すべきだと思います。

 

八板:ところで、役者にも分からないような効果音が、約束ごととして必ず入る音があると思いますが、辻さんがやってらっしゃる芝居でも観客が果たしてわかるかどうかという音もあるのではないでしょうか。

 

:我々にも分からない音というものもたくさんあります。例えば、辻占(つじうら)の「きたわいなア、きたわいなア」という物売りの声があります。幕切れでその音を出して暗転で絞ってしまうことがあります。すると役者も含めて皆「あれはなんだ」というのです。「辻占」だと言っても皆はわからないです。

  • 物売り=持ち歩いて品物を売ること
  • 辻占=吉凶を占う紙片を売り歩く人

 

八板:そういう音は、どのように解釈して出すべきなのでしょうか。

 

:芝居が弾むかどうかということでしょうね。効果が上がるかどうかです。

 

八板:それによって幕を降ろしやすくなるとか、形がよくなるとか、芝居がそこで盛り上がるとか、そういうことですね。その歌の文句はどうでもよい。

 

:役者の芝居との「リズム」「間(ま)」が合えば効果が上がり、芝居がおもしろくなるでしょうね。夏の物売りの定番は「金魚売り」ですが、別に金魚でなくても雰囲気が出れば何でもよいのです。ただ季節感があるから金魚売りなのでしょうけど。

 

日本人は擬声語を表現する情緒豊かな民族

 

:これは前に(日本音響家協会機関誌連載記事の)「心に残る音」にも書きましたが、オノマトペ、つまり「擬声語」の音を作るのは非常に大変なのです。例えば「ドッカン」とか「ドスン」とかです。

 

八板:擬声語を表現することは大変なことだけど、それを作れれば巧く表現できますよね。それが可能ならば、イメージどおりになってくるのですよ。演出家も納得するし、観客にも分かりやすい。音ではなく、言葉として分かるのです。これは日本人の特異な感性なのでしょうけれど。

 

:日本の言葉というのは本当にその音に合った表現をしますね。「ホーホケキョ」なんて傑作です。

 

八板:カラスなども場面によって「アホー」にもなる。そのように言葉として聞いて、それを受けて芝居するということがありますから、「アホー」と聞こえるような音を作らなければいけないだろうし、そういうことは日本独特ですね。

 

:昔、芝居で、汽車の車内の場面があって、そこに汽車の音を流すわけです。そこで新派の名優、大矢市次郎に「汽車の音というのはどんなだ」と言われて、「ナンダサカ、コンナサカ」だと答えたら「それはダメだ、この芝居では、『シンダカ、イキタカ』だ」と言われた。つまりその芝居には、死んだ母親のもとへ帰るわけだから「シンダカ、イキタカ」のテンポが必要だったのです。

 

八板:それは、日本人同士だからわかる。昨年、ウイーンのオペラの人達が来日したときに、宿泊先のホテルの窓の外で啼いている虫に対して「このスピーカのノイズを止めろ」と言っていました。また、私が歌舞伎でプラハへ行ったときのことですが、「ピピッ」と千鳥の笛を吹いたら、それはロシアの警官の笛のようだから聞きたくない、やめてくれと言われました。それくらい音に対する受け止め方が大きく違います。

 

:外国の芝居を見てみると、情緒の中で情緒を煽るような芝居はないです。いわゆる物売りとか汽車の音を情緒として感ずるとかいうものは外国の芝居にはないです。

 

八板:そういう音はノイズとして捉えられてしまいます。

 

:これからは日本の芝居も変わって、いわゆる情緒的な効果音というものも必要なくなってくるのではないかと思いますが、そうすると何ともうら寂しい気がします。

 

八板:やはり音楽処理が多くなってきていますね。観客もスタッフも、効果音の効き目を感じない人が多くなったようです。日本人の情緒的な音の感性は退化してしまったのかもしれません。

 

良い音とは何か

 

:今、私が悩んでいることは、音が無いと芝居が進行しないか、お客さんが満足しないかというと、そうではないのではということです。ミュージカルやコンサートは別ですが、芝居の場合、果たしてそこまで考える必要があるのかと思ってしまうのです。どういう催しをやるかという目的の問題になるのです。音質の追及は、音響家の自己満足に過ぎやしないかという点も反省しておきたいのです。

 

八板:芝居にとって良い音というのは周波数特性とかではなく、良いとか悪いとか感じさせない音ということになるでしょうね。要らぬ機材を並べたり、不要の調整をしたりと、余計なことをし過ぎかも知れません。

 

PAをやっている人は機材については強いのですが、自己満足になっていることが多いのではないかと思うのです。また、他人がやっていることと同じようにやらないと遅れるという感覚があるのですね。それが悪い影響ではないかと。要するにシンプルが一番良いのです。条件が悪かろうが何だろうが、要は結果が良ければ、良く聞こえればそれで良いのです。

 

八板:結局、経験を積んだオーソリティーが余計なことをしないでミクシングした音は、聞きやすく、安心して聞いていられます。観客からすれば、それが一番ということです。

 

歌舞伎に学ぶ

 

:昔はとにかく人手がかかったわけです。効果をやるのに。お囃子さんという「音楽」がいて、鳴物さんがいて「現実音」を出して、さらに小道具さんや三階さんが擬音効果をやって、大道具さんが「つけ」を打ち、狂言さんがいて「柝」を打つといった具合に、つまり贅沢なものです。

  • 三階さん=芝居の楽屋で階級の低い俳優のいる大部屋のこと、またはそこにいる俳優。昔大部屋は3階にあったことからこのように呼ぶ。

 

八板:狂言作者が打つ「柝」は舞台監督の合図の役目をして、一つ一つに意味があり、舞台転換も「柝」の音で全裏方が作業にかかれます。また「一番太鼓」「着到」「打ち出し」といった大太鼓を中心とした鳴物の音で、劇場全体が動いています。

 

:私自身、音響やっていて今一番感じているのは、やはり歌舞伎が基本だと、そして歌舞伎の「間」というものが、やはりキッカケにしても間の取り方にしても基本になっています。あるとき新劇をやっていて、新劇の人が演出して、私は例えば音楽にしても音の入り方がそこしかないと思って入れたのですが、そうしたらそれではいかにもキッカケ過ぎるので、その前から音を入れてくれと言われてやったのですが、結局は気持ちが悪いのです。

 

八板:気持ちよくないと見ているほうも拍手ができなくなります。幕切れでどうしても拍手をすることができない芝居がありますが、それは演技がうまいとか下手とかいうことだけでなく、そういう作り方をしている芝居なのです。

 

:我々音の方も歌舞伎を勉強しなくてはいけませんが、役者も勉強しなければいけません。

 

八板:オペラもそうだけど、目と耳を心地よくしてくれます。セリフも七五調で音楽も気持ちよいところで入って、殺人などのいやな場面でも心地よいです。その心地よいということがやはり大衆芸能の基本です。耳と目の快感を楽しむ演劇なのです。

 

:鶴屋南北などは「悪の美」です。

 

八板:残虐に殺して逃げる場面で拍手をするお客さんもひどいですが、そこで拍手せずにはいられない「演技の美」がある。拍手は、その美に対する称賛なのです。

 

:それが要するに「芸」なのです。やはり歌舞伎の場合は芸を見に来ますから。「芸」を我々も見せるようにしないといけません。

 

八板:先人はいろいろなことを考えました。

 

:何といっても大太鼓はすばらしいですね。現代劇で歌舞伎の「雪音」を使ったことがあるのですが、全く不自然でなかったです。「雪音」とか「水音」とかいろいろありますが、よく考えられています。

 

八板:実はロンドンでやったレクチャーデモンストレーションで、大太鼓の効果音を聞かせてみたら、参加者に理解されました。この音は何に聞こえるかと質問すると「川」とか「波」とか答えました。この大太鼓による効果音は、波音や風の擬声語を表現したものなのですね。

 

:よく考えたものです。

 

八板:能では谷底の深さを表現するために「トーン・・・トーン」と間を空けて太鼓を打ち、滴のエコーをイメージさせます。また狂言では「酒を注ぐ音はドブドブドブ」「ノコギリで切る音はズカズカズカ」と言葉で表現します。

 

:日本は言葉表現が先行しています。ヨーロッパは沢山の言語の民族が地続きでいたのだから、言葉では通じないので、メロディーで表現するほうが良かったのだと言われています。だから楽器が先行の音楽になっているわけです。ところが、日本の楽器は全部、言葉に合わせて発達してきました。

 

八板:日本の楽器は言葉ですね。だから三味線や尺八などが言葉のように聞こえます。

 

:だから日本の言葉を洋楽に乗せても合わないのです。それから感心するのは、歌舞伎の現実音のほとんどは楽器で演奏していることです。例えば、海の近くの場面であれば千鳥の合方に太鼓による波音を加えるとか、情景がすぐに分かるようにできているのです。

  • 合方=歌舞伎で、幕開き・幕切れ・俳優の出入り・台詞・しぐさなどに合わせて、舞台の効果を高めるため演奏される三味線曲。千鳥の合方は、千鳥が飛び交っているイメージの曲

 

八板:それから、パーツになっていて繰り返して演奏できたり、組み合わせたりできるようになっています。

 

:情景に対する感覚が、日本人は非常に良いのではないでしょうか。

 

八板:花道の揚幕の開閉も場面によって音の立て方が違います。「チャリン」と勢いよく開けるときもあれば、静から「ザラザラザラ」のときもある。

  • 揚幕=花道への出入り口の幕

 

:「チャリン」などは実に巧くやりますね。

 

八板:だから誰にでもできるわけではないのです。「つけ打ち」なども大道具さんがやっていますが、音感がよくなければできません。演技力も必要です。

 

:このように、さまざまな素晴らしい要素を持った日本の伝統芸能は、現代の新しい芝居を演出するにしても、音作りのヒントになりますから、是非、学んでおきたいことですね。