私の音響デザイン考

劇場技術者としての生い立ち

 

好きなことができていいですね、とよく言われた。この言葉にはいろいろな意味が含まれている。音が趣味でこの世界に入ったわけでもないので、いつも返答に困った。歌舞伎や日本舞踊が好きで、この仕事に就いたのでもない。

 

私は、劇場に入る前、テレビマンを夢見て、その下積みをしていた。1964年の東京オリンピックでは、開会式の2カメのアシスタントをやっていた。2,000mmのズームを付けた新開発のカメラで、選手の入場ゲートをクローズアップして、徐々に引いてくる映像を撮っていたカメラである。

 

1966年、国立劇場がオープンするというので声が掛かり、映像記録を担当するつもりで入ったのであるが、音響係に配属されてしまった。そこからが地獄の始まりである。

 

上司は演劇界の個性豊かな人物で、技術屋の私に「俺たちは創造家だ。今までの技術は忘れろ。芸術家は媚びた仕事をしてはいけない。」などと言い続けていた。毎日が、上司・部下の関係でなく、師弟関係のように酷使された。しかし、お前は弟子だと言われたことはないので、師匠とは呼ばないことにしている。辛かったので、いつ逃げ出そうかと、そればかり考えていた。

そのためには早く一人前になろうと、外部に仲間をつくり、酒を酌み交わし広範に学んでいた。越路吹雪さん付きの舞台監督の高橋仁さん、元劇団四季の吉田卓司さん、NHKの桜田研三さん、元ブルーンジンズのベーシストの牟田口修さん、仲間というよりも先輩たちで、いつも元気を与えてくれた。

 

毎日放送の升章さんに出会った。新作歌舞伎やバレエのための音楽録音で何度もご一緒した。升さんが録音した筝の音は「紫色」と評されていた。その先輩に最初に言われたことは「邦楽が分かるには10年掛かるぞ」であった。

 

さて、職場では夜公演が終わり事務所に戻っていくと、鬼の上司が控えていて、「これから音作りするぞ」の一言で徹夜になる。鬼は途中で寝てしまうので、私はコツコツ一人で作っておいて、朝方に聞かせるというのが常であった。でも、これが身になったのであるが、それ以来、自分の仕事では絶対に徹夜をしないことにした。

 

しかし、この上司の音の発想はスバ抜けていた。その発想を元に、具現するのは私の役目であったので、技術的なアドバイスは前出の先輩たちからいただいた。

オープンテープレコーダのキャプスタン口径を替えて、速度を微調整して音色を調整。逆走行させたり、速度を切り替えたりして、試行錯誤しながらの音作りは時間が過ぎるのは速い。オープンテープレコーダの速い走行速度(38cm/s)でベニヤ板を引きちぎる音を録音して、遅い走行速度(19cm/s)で再生すると、家が崩れる音になったりする。10メートルものテープのループを作り、それをぐるぐる回し20分にもなる音を録音することが多かったが、途中で眠ってしまい最初からやり直すことも頻繁にあった。

 

膨大なレコードコレクタとしても有名な映画監督の武智鉄二さんとも、何度か仕事をさせていただいたが、レコードの回転を切り替えたり、逆回しをしたりして創作舞踊の音楽を作らされた。

このようなこと、現在ではパソコンでいとも簡単にできてしまうのであるが、この経験があるかないかで、デジタルによる処理手順や発想に違いがでてくるものである。

 

革新的な時代

20代は、以上のように幼稚な音づくりで過ごしたのであるが、私たちはこの他に、途轍もない仕事を始めてしまった。400年もの間、受け継がれてきた歌舞伎に音響家の手を入れてしまったのである。セリフのSRをする仕事と、役者たちが受け持っていた擬音効果(擬音というと目くじらをたてる人もいるが)の仕事を、私たちが始めたのである。それまでは役者のお弟子さんたちがやって報酬を貰っていたのだから、ただ事ではない。さまざまな抵抗勢力と和解をしながら辛抱強く、私たちの仕事にスライドさせた。

 

セリフのSRに対しては、新聞や演劇雑誌でこっぴどくバツシンクを受け、これに気づいた中村歌右衛門丈は怒り、ミクシングしている私の後ろにお弟子を立たせて、SRをしないように監視されたこともあった。役者にとって、SRされることは屈辱なのである。ところが、それから20年が過ぎ、晩年は自らSRしてくれと申して出てきた。このようなわけで、若手俳優のセリフが聞こえなくても、もっとセリフ術を学べというメツセージを込めて、SRはしない。声量の衰えた名優のセリフはSRすることにしている。とはいっても、SRしていることが観客にバレないほうが良い。観客に気づかれないSRを目指して、いろいろな試みをしてみた。マイクを近接して設置し合成して指向性を鋭くするとか、反射型スピーカにしようとか、ディレーマシンを使用するとか、いろいろやったが満足できなかった。アナログ・ディレーに至っては、ノイズが凄くてSRしているのが気付かれてしまう有様であった。

 

創造、創造と口癖のように言っていた上司は、新しい手法、新機材を使った音作りに余念がなかった。手抜きはしないし、次から次へと新しいことを考え出すので間に合わない。

創作劇になるとすごい量の効果音を作る。3時間の芝居に5時間もの音を作る。同時に5台のテープレコーダからさまざまな音を再生して、立体的に音を組み立てるからである。

客席の壁、天井、プロセニアム、ホリゾントの裏、舞台袖から別々の音を出すのである。二つの手では間に合わず、足と口も使用して操作したこともあった。

このような育ち方をしたためか、私の音響デザインは全く別方向に向かって行った。ただ、ときどきあの上司と同じことをやっているに気付いて驚くことがある。

 

効果音の値段

この頃、大手劇団の演出家が、効果音が少ないからデザイン料を値引きしろと言ったとか、言わないとかが話題になっていた。

劇場付き(小屋付き)の場合は、商取引がないので、そのようなことはない。「何もなし」でも成立するし、そのように判断することも正当なデザインである。

伝統芸能ではよくあることなのだが、演奏位置を変えたりして、良い状態を作り、SRをしないことも立派なデザインである。空調騒音が気になれば空調を止めることもある。そして、伝統を逸脱しないように見張るのも伝統芸能のデザイナーの役目である。

 

邦楽のSRを考えるとき、音量だけでなく、その空間が別な空間にならないように注意している。原則「生」の邦楽では、「30cm前に出す」といった表現のSRをしている。

ときには、年老いた歌い手の喉に潤いを持たせるためのSRもある。数年若返らせ艶(つや)のある声にするSRである。

そこには、観客が身を乗り出して聞くようにするか、踏ん反り返った状態で聞かせるかの判断がある。ジャンルの違い、演出意図の違いなどで当然、SRの考え方も変わってくる。

 

30代初めのころ、坂東玉三郎さんと地方公演によく出かけた。そこで、尺八の名手の山本邦山さんとモニターのことで対立した。そのとき玉三郎さんは、「今のうちに二人でキチンと話をしておいてくださいねえ、本番の責任はすべて私なのですから」といって楽屋に戻ってしまった。二人で所作台の上に膝を交えて話してみると、演奏者が言う「返りの音が聞こえない」とは、観客席から反射してくる音のことであって、モニターの音をくれということではなかった。客席と舞台との距離をおいて話していては、うまくコミュニケーションがとれないものだとわかった。

 

稽古場は楽しい勉強の場

稽古場は勉強の場所でもある。

通常の歌舞伎では、座頭や幹部俳優が演出家である。下の俳優たちや音楽にダメを出したり、細かな指導したりしている。それを聞いていると、演出の意図、演技の心が理解でき、それが音の仕事に活かせる。

しかし、それだけではない。恐ろしいこともたくさんある。

生音をやるときは、大勢の俳優とスタッフの前で犬の鳴き声をしたり、新作作品のときは怖い演出家が居て怒鳴られたりもする。

 

逆らうことができない怖い先生をよく「テンノー」と呼ぶ。演出家の北条秀司先生もその一人である。徹夜明けで稽古場の音出しをしていたときのことである。幕切れで、静かに音楽が入ってきて、次第に盛り上げる場面のとき、寝ぼけていていきなり大音量でカットインしてしまった。「バカ者、そこに直れ、手打ちに致す」とばかりに怒鳴られて、「君がそこにいるうちは稽古を始めない」と言われてしまった。フリーズしたまま、じっと我慢していたが、それは長時間に感じた。そのうち気を取り直すかのように「稽古始めよう」と言ってくれたので助かった。稽古がだらけると誰かを怒鳴りつけて空気を変えるのが得意な先生である。この先生は、稽古をしていて筝曲が欲しくなると、「松竹梅」と曲目で指示する。その場面に合わないので別な曲を持って行って聞かせると、「これ松竹梅だね」というので「はい」と答えるとOKが出た。これが流れというものである。正直に、実は・・と流れを壊したのでは、その場の納まりが悪くなる。

 

昔の演出家は皆、怖かった。新派を担当したときのこと、演出の川口松太郎先生は、雷の音が怖い人だということを耳にした。悪ふざけを込めて、雷鳴をたくさん使ったプランをした。30カットほどの雷鳴で芝居を進行させた。初日が明いて3日目の休憩時間に、"川口先生が呼んでいるよ" と制作が呼びに来た。てっきり叱られると覚悟していったら一言、「これ、おもしろいね」であった。

 

劇団四季の「絵師金蔵」という作品を国立劇場で上演した。斬新な演出で大道具も照明も殺気立っていた。上司がプランナーなので、私がオペレータをやっていた。プランナーは難聴なので、音合わせの音が大きくて、大道具や照明の作業の邪魔になっていた。

当時のインカムの性能が悪く、被り音で使えないのである。演出助手から、どうにかなりませんかとのクレームがあり、それならば音合わせなしでぶっつけで舞台稽古をしようということになった。

プランナーも納得した。調整室はガラス張りの金魚鉢。そこで熟練したのがよかったのか、勘を頼りに難なく舞台稽古が済んで楽屋でダメ出しとなったのだが、音響のダメはないから出席に及ばずと言われ、見捨てられたようで寂しかったが、結局、千秋楽までダメはなかった。それ以来、演出助手とは仲よくなった。

最近は、怖い演出家や幹部俳優もいなくなった。その分、感動する芝居も少なくなったようである。

 

若気の至り

40代は、ばかげたことをやり過ぎた。静岡の真鶴湾全体を使って夏祭りと現代音楽の大コラボレーションをやったり、筑波万博前夜祭と称して代々木の体育館でエレクトロニクス薪能なるものをやったりした。古典の能楽にレーザー光線と電子楽器を加えたらもめるのは当たり前である。リハーサルで、エレクトーン奏者が出しゃばり過ぎて大変なことになった。リハーサルが終わると能のお囃子さんたちから、本番は出演しないとゴネ出した。レストランで食事をしていると、プロデューサが呼びに来て、リハーサルをもう一度やり直すことになった。

今度は、バランス調整を音響に任せるということで、電子楽器はお囃子を邪魔しないように活け殺しである。能が終わったところで電子楽器をフルパワーにフェードアップしたら、能の演者たちは心地よく橋懸かりを退場していった。これで、どうにか本番を迎えることができた。

 

このように、若い時は珍しいことや自分が目立つことに精を出していたが、今では「余計なことはしない」というのが私のデザイン方針である。

できるだけ演者に頑張ってもらうように仕向けて、演者が高く評価されればそれが一番である。

玉三郎さんの「本番は私の責任」と言われたことを肝に銘じている。

ときどき、今回は音響が主役ですからなどと煽ててくるプロデューサがいるが、私の嫌いな言葉である。このようなプロデューサは、ギャラの支払いになると脇役にされる。

 

30代から40代に掛けて、本業以外の多くの仕事をこなしていた。47歳のとき、市川染五郎さんの歌舞伎版ハムレットでイギリスに行った。イギリスは不景気な時であったが生き生きと仕事をしている舞台技術者を見て感じるものがあった。帰りの飛行機の中で、もう本業に徹しようと心に誓った。47歳であったとは、ハムレットの亡霊に諭されたようで、因果を感じた。

 

音の使い方

音には偉大な力がある。ひとをわくわくさせたり、悲しませたり、勇気づけたりできる。私は、その力で、まず演者を動かし、演者の力で観客の心を動かせればと思っている。音で観客を感動させたら、演者を消えてしまうことになるので申し訳ないからである。

 

効果音や効果音楽は、セリフを基準に決める。セリフの前に出るか、後ろに控えているか、セリフを破壊するか、セリフを包むか、セリフを助けるか、いろいろと細工をして音を決める。これならば、60過ぎた難聴の私でも、セリフを基準にしてレベルを決められる。

 

スニークインやスニークアウトの手法を知らないとか、使わないという人が多くなった。

スニークインは遅いフェードインのことと勘違いしている人もいる。

音はガーンと出して、バサっと消すことが多いせいか、再生機のスタートを「ポン出し」とか「叩く」と言うようであるが、私はこの呼び方をしない。

怒りを込めてスタートボタンを叩くがごとく押すこともあるが、やわ肌に触れるように押すこともある。

ここから、すでにオペレータの表現に入っている。勢いよくハンドサインを出されたとき、美しいフェードアウトができないのと同じだ。デザイナーの立場としては、そのようなことが理解できるオペレータとお付き合いしたい。

 

音痴な演出家も増えてきた。

間を音で埋めれば良いというものではない。

音に頼らない演出を目指せば、音を大切に使うようになる。音の数で料金を支払うような考えでは、音の効き目を演出できない。音量を上げて、音響家はここにいるぞと誇示しないと、相手にされないのでは情けない。

作家で歌舞伎の新作演出もしていた宇野信夫先生は、録音音楽支持派である。「セリフの後ろを這うように音楽を流したいので録音がいいね」とよく言っていた。

文学座の戌井市郎先生は、効果道具を用いた生音(擬音)を好まれた。

 

このように演出家によって好みが違うので音響デザインの考えも異なってくる。

音響だけで仕事は成立しない。俳優やミュージシャンがいなければ成り立たないのが私たちの仕事である。

だから、芸術家などと気取ってはいられない。さまざまな手品のネタを用意しておいて、演出家の要望(わがまま)に応じて、とっさに具現しなければならない。

知識だけでなく知恵が必要な仕事である。

 

生演奏の方が良いこともあり、録音した音を上手に操作したほうが良いこともある。

劇伴音楽として新たに作曲することもあるし、レコードから選曲することもある。

演劇の音は、セリフを基準に描く。演劇のセリフは日常会話と違って、作られた言葉であるから、効果音も自然界の音でなく、創作音の方がマッチングする。特に歌舞伎のセリフに、山で録音してきた鴬の声を被せたらおかしなことになる。よく言われるが、芝居は"らしさ"の世界である。「本物らしく」演じることとしているのであるから、効果音も"らしく"作ったほうがよく馴染むのである。

 

私の効果音作りの姿勢

私の効果音作りの姿勢は、「視覚がなくても理解できる音」「役者に演技をさせ観客の心を動かせる音」を作ることである。

そしてオペレータが誰であっても、最低限、私の味が出る音を製作することにしている。

オリジナルの音を作ることも大切だが、淡白で現実主義の私は、素材は何でもよい、目の前にあるゴミでも、ひどい音のCDでも、それをいかに料理して商品にするかをいつも考えている。

そのまま料理しないのでは商品にならない。路傍の石でも磨いて商品に仕立てろというのが私の考えである。

マニアではないから音を作る過程は楽しまない。本番で音が出て、観客が喜んでいるのを見るのが楽しいのであって、あとは旨い酒を呑むのに時間を費やしたい。

また、伝統芸能のSRをやっていると、私たちが出過ぎるとぶち壊しになるので、"目立たないで、しっかり裏で支えている" という心がなければならないと思うようになる。

 

だから、私は舞台芸術とか伝統芸術とか言わない。舞台芸能とか伝統芸能と呼ぶことにしている。総合的に誰かが評することで、最終的に演者が芸術家と評価されればよろしいのではないかと思っている。

 

必死に働いて50歳を過ぎたころ、長唄の名手の唄を観客席で聞いたとき、自然に涙が溢れて止まらなかった。このように素晴らしい仕事に就いていてよかったと思えたのである。あの先輩の「10年掛かるぞ」が、20年も余計に掛かってしまったようである。

 

伝統芸能の世界では、「4050はハナタレ小僧」と言われる。それほど芸を磨くのは大変だぞということである。

 

松竹株式会社の故永山武臣会長が、おっしゃっていた。「40年も経つとみんな名人になるんだ。だから、芸界では3歳に初舞台を踏むのだ」と。成人してからでは遅いということだ。

以上が私の音響デザイン考であり、あの鬼の上司が私に与えてくれた人生である。

 

上司は私が31歳のとき、1976年に42歳で他界した。京都の知恩院に眠っている。「ヤイタよ。音響家も音楽家、音楽家も音響家の時代だ。いろんなジャンルがボーターレスで交流できる組織を作れ」というのが最後の言葉だった。その言葉で一般社団法人日本音響家協会を設立することにした。あれから30年、先輩よりも20年多く生きた。何ができたのかわからないが、精いっぱい生きたと思う。いま思えば上司は鬼ではない。神か仏だ。感謝とともに、あの頃が懐かしい。(2006年筆)