ホール音響雑学

この記事は1982年1月から兼六館出版の「放送技術」に連載したもので、2年分の中から抜粋して少しずつ掲載します。八板賢二郎


19827月 マイクロホン考

  

 マイクロホンは人間の耳と同様に考えることはできない。感情をもたないからである。しかし、ミクシング技術によって感情が移入されたとき、人間の耳としてとらえることができる。人形劇の人形のごときものといってよいだろう。経験豊富なミクサ一はそのポイントを良く理解しているが、ステージでマイクのセッティングや転換をするのは、経験の少い人が普通である。マイクセッティングで、ミクシング出来栄えのほとんどが終了してしまうので、本番寸前の最終チュックはミクサ一自ら行いたいものである。

 音楽でも演劇でも、観客席では一つにまとまった音響を聞くことになるが、マイクロホンはそれぞれの音源に極力近づくことができる。またあるときは、音源の振動そのものを直接収音することもある。したがって聴取者は、それぞれ楽器に耳を接近させた状態で音楽を聴くことになる。これが最近の収音技術の一つの方向である。

 最近、音響家の研修会で、マルチマイク方式のPCM録音とワンポイントマイク方式のカセット録音との比較試聴をした結果、カセット録音の方が迫力があって、音楽性が豊かであるという意見が多かったそうである。現在、あれこれと細工をほどこす時代ではあるが、ときどきは原点にもどした方が良いのではないだろうか。

 マイクロホンは、ここ十数年でめざましい発展をとげた。なんと言ってもマイクロホンが一般社会に溶け込んでいることである。10年程前は、テレビでワイヤレスマイクを使用すると、コードもないのにおかしいとか、AKGD-24全盛時代には形が猥褻であるという苦情が放送局にあったそうだが、現在では無頓着になっている。

 カラオケブームも一役を買っていることだろうが、マイクはすっかり日常生活に入り込んでいる。たとえば、ヤラセの取材番組で、インタビュアが「どこのご家庭におじゃましようかしら。あ、そうここにします。どなたかいらっしゃるかな」などといって玄関を入ると、そこのおばあさんの胸にしっかりとピンマイクがついている。番組制作者も視聴者も、だれもおかしいとは思わない。

 我が国のマイクロホンに対する考えは意外と保守的である。今でこそ、あるスケールにあてはめて一級二級ということが通用しなくなったが、一つの使い方に固執したり、常識的な使用方法になる傾向にある。要するに画一的なのである。しかし、非常識(改革的、新しい物への挑戦)が進展を生むことになり、一部の非常識者たちによって技術革新がなされているのである。よく見かけることだが、新しいマイクを導入するとあれこれと批評する御仁が多い。しかし、目かくしで比較試聴をすると新しい方に軍配を上げたりする。また、初めは全く拒否していた者がいつのまにか、そのマイク一辺到になったりする。

マイクロホンの変遷の中で、ひとつの特長は使用する上で、あらゆる制約を受けなくなったことである。ステージでは、演奏者が自由に取扱い、使い方もうまくなってきた。それだけに、音響技術者はマイクロホンに関して特権意識をもてなくなったわけである。「今日のマイクのセッティングは下手だな」とか「私の楽器はここから収音してくれ」などとうるさい演奏者もよくいるものだ。

 

 マイクロホンのカタログをみて、その特長を理解することはむずかしい。周波数特性がフラットで帯域が広ければ良いわけではない。測定用のマイクロホンが、ステージでその役を果してくれるだろうか。

 カタログは横目で見るものなのである。マイクロホンの良し悪しを判断するのに、無響室で測定できない多くの要素がある。指向特性だけでは被り音の影響を判定できない。ステージでは、他の楽器のマイクへの被り音が音質を悪化させていることもある。2つの楽器にそれぞれマイクをセッティングした場合、それぞれ単独では良いが、2本同時に使用すると音質に変化を来たすことがある。互いに影響を与えているからである。特に万能型マイクロホンといわれるものに多い。万能型マイクはどの音源にも使えるが、どの音源にも最良ではないと考えた方がよいだろう。どのマイクロホンにも欠点はある。それぞれ特長を引き出して、うまく使いこなすことが賢明である。

 マイクロホンは、音響技術者によって生かされるものであるから、設計者(メーカー)と必ずしも、その使用目的は一致しない。マイクロホンの活用法は現場の音響技術者の範ちゅうのものである。したがって、現場と交流の多いマイクロホンメーカ一のもの程、現場に受け入れられるものを開発する。しかし、現実には研究所から一歩も外に出ない設計者が多いようで、これが国産マイクロホンに期待できない要因にもなっている。

 

 ところで、劇場•ホール用のマイクロホンを選択する場合どのように考えればよいだろうか。大きくはオンマイクとオフマイクに分けることができる。現代的な音楽物ではオンマイクでマルチブルにセッティングすることが多いが、古典音楽やミュージカル、演劇ではオフマイクでの使用が多い。オフマイクは、遠距離で使用しても音質に変化が無い(少ない)もので、近接効果を意図して設計されたもの、つまり音源の近づいたときに低音域が上昇する現象を応用したボーカルマイクは、不向きである。オフマイクとしてガンマイクを使用することが多いが、このとき注意したいのは、単音源の場合はよいがいくつかの音源の中から1つの音だけを収音したいとき、目的外の音が異質の音色になって入ってしまうマイクロホンは避けるべきである。ホールでは、常に複数の音源があるので、複数のマイクロホンを使用することを考慮して、機種の選定をすべきである。オフマイクとしての条件は音源が遠い近いにかかわらず音質に差がないことである。また、SRとしてはハウリング対策を考慮しなければならないことはいうまでもない。ホールでは単一指向性のものが多く用いられている。

 また、オンマイクの中でも、通常シーンオフ(またはオン)マイクといわれる、視覚的にオフとなるマイクロホンを用いることがある。人体に付けて使用する場合や、音源の近くの小道具や譜面台に取り付けたり、床に置いて収音するものである。

 複数のマイクロホンを使用すると、マイクロホン相互の位相干渉で、周波数特性を乱すことがある。この干渉を防ぐために、マイクロホン相互の距離を、マイクロホンと音源との距離の3倍以上にするとよいという研究結果がある。ステージではこの比率を確保することがむずかしいことがあるので注意したい。台詞の収音で、オフマイクを用いる場合など、台詞に合わせて1本ずつ上げ下げをすることが望ましい。

 コーラスグループの収音で、1本のマイクロホンで収音した場合とマルチマイクで収音した場合とではハーモニーの美しさが違う。1本のマイクでハモっている音を収音した方が、電気回路でハモらせるマルチ方式よりも良いのである。あるグループは、曲によって使い分けているという。このようなところに、ライブステージの本来の魅力を垣間見ることができる。

 音のバランスは、音量の調整だけで解決するものではない。ホールの音響においては音の遠近感を忘れてはならない。たとえば、同機種のマイクロホンをギターとボ一力ルに用い、調整卓のフェーダレべルを等しくしたまま、マイクロホンのセッティング距離を調整してもバランスはとれるはずである。セッティングがよければ、調整卓のフェーダが一直線に並ぶなどといわれる。極論を言えば、マイクロホンの選択とセッティングを完璧にすれば、調整卓の入カフェーダはON/OFFスイッチでもよいのかもしれない。マイクロホンに近い音は、聴衆に音源が近ずいたことになるから、聴きたい音がうずもれた場合には、それ以外の音を遠くにもっていかなければならない。

 また、ある楽器だけをSRする場合、その楽器をオンマイクで収音すると、生の音と融合しないことがある。

 このような場合は、オフマイク収音にするか、残響付加によってオフ処理をしなければならない。

 ポピュラー音楽では、もらゆる楽器に対して極端にオンマイクで収音することが常識化されているが、この場合に、ボーカルがうずもれてしまうので悩まされる。このようなときはオーラルエキサイタを用いて、ボーカルだけをよりオンに聞かせる方法がある。しかし逆に、楽器群をオフ処理することも考えてみるべきである。音に遠近をつけると音楽に深みが出てくるものだ。

 

 今、PZMという特殊な方式のマイクロホンが話題になっている。ところが、常識派にはなかなか受け入れないらしい。常識という生温いところから抜け出て発想の転換をしなければ、芸術の創造などできないだろう。基本だけをしっかり身につければ、応用は自由である。

 

 ミクシングの段階に入ったら、マイクロホンの機種や特長などに固執しないほうがよい。もう創造力だけである。

 

 

 


1982年1月号 劇場の音響

 

 本来,劇場やホールで聴く音は最良のはずであ.なぜなら,映画,放送,レコードとは違って,記録媒体や低波変調等による制約を受けないからなのであるが,結果は必ずしもこの理論どおりにはならない。

 それは,電子技術がここまで進歩しても,音響機器の性能だけでは解決できない要素が多々あるからである。

 絵画の価値は,絵の具で決まるのであろうか。決して,そうではないということは,舞台音響にも通ずるところである。いまここで,音響家は電気工学のみでなく,物理学,音楽,心理学など,広範囲な知識を必要とすることを,もう一度思い出さなければならない。そして何よりも,舞台芸術を広く理解しなければならないということである。

 ホール音響を扱う上で,以外と忘れられているのは,反射音(間接音)の重要性である私たちがホールで聴く音のほとんどはこの間接音なのである。残響時間の長いところで演奏される音は豊かになる。短かくすれば明瞭度が向上するという解説は,建築音響関係書によく書かれているが,それだけのことで一概にそう断言することはできない。よく,外国からの舞台関係者がやってくると,日本のホールを見学したあと「学者の作ったホールですね」とか「データ中心のホールですね」と批判をうけることが多いが,それらはデータと理論で作り上げられたホールなのだ。最終的なホールの音響調整は人の声でやるのが一番,タイムディレイの調整などは発振音ではやはり不可能。設計図どおりに作っても,なかなか満足な響きのするホールはできないものだが,わが国で音響が悪くて補習工事をしたという話をあまり聞いたことがない。

 関西に残響時間が2秒の音楽専門ホールができたというので出かけてみたが,結局,2秒にしやすい周波数成分をのばしただけで,もっとも重要な中,低域については,従来どおりといったところで肩すかしをくってしまった。

 残響時間だけで,そのホールの良し悪しを判断することはむずかしいが,良い響きは生の楽器にだけでなく,スピーカから出る音にも良い影響を与える。適度の響きは,良い音色を客席全体に万遍なく響かせて,スピーカの効率までも助長させる.逆にいえば,悪条件のホールではできるだけ効率の良いスピーカに頼らなければならない。よくあることだが,スピーカの前ではうるさくて,客席のうしろが聞えないということ.これは,スビ一力のセッティングに問題があるが,スピーカの性能か

ホ一ルの響きのどちらかにも問題がある。しかし,ホールの特性はたやすく改善できるものではない。

 ホールは,録音スタジオを拡大したものではない。中野サンプラザホールは,響きを極力少なくし,電気音響だけで,ホ一ル音響を処理しようとしたのであるが,いろいろな弊害があった。ステージと客席との一体感の欠乏,客席の音圧分布の悪さ,電気音響エネルギ一の損失などである。開場当時,他のホールでは満足できたスビーカシステムを持込んだのだがパワー不足で,スピーカユニットを壊してしまうことが続発した。そして騷々しいのはスピーカの前だけ,客席のうしろではステージがはるか遠くに感じてしまう。響きをなくすことは,エネルギ一の無駄使いになってしまうということだ。

 古代ギリシャのディオニュソス野外劇場は座席数が20, 000近いと推定されるが,ここでもいかに同時に多くの人たちに音を聞かせようという工夫がされているのである。パブリックアドレスの始まりである。かの,ロサンゼルス郊外にある野外劇場,ハリウッドボールでも,毎年,電気音響装置ばかりでなく,反響用のボールやポールを取り付けて,改善を行っている。

よく拡散された響きのホールの中でスピーカを鳴らすとどうなるか,客席のどこの場所でも一様のレベルで聞こえるわけである。スピーカの近くは音が大きすぎるという思い込みは研究所の無響室の発想である。先日,アメリ力公演に出かけた人形劇団のプロデューサが帰ってきて,「スピーカの前でもうるさくなく,客席の後ろまでよく通るスピーカを,ソニー・アメリカが用意してくれた」といって喜んでいた。また,日本のホールでは,たいていのホールがどこのメーカのスピーカを用いても,その特長を引き出すことができないのであるが、宇都宮市文化会館ですばらしい響きに遭遇した。最初は邦楽で2回目は歌謡曲で使用したのだが,残響音の消え方がたいへん美しく,壁の中に吸い込まれていくように減衰していくホールである。響きのよいホ一ルは生の音だけでなく,スピーカからの音にも潤いをもたらす,というホールである。しかし,私はこのホ一ルの残響時間を知らない。知る必要もないので聞いてもみなかった。同じ残響時間のホールを建てたところで同じ響きのホ一ルが誕生するとは考えられないからだ。

 ホールにおいて,電気音響設備をうまく使いこなすコツは何であろうか。それは,いかにそのホールの建築音響特性を把握し,それに融合させるかである。武道館はあまり特性のよくないホールである。いつの頃からか,響きすぎるホールではオーバーな音圧でおしまくれ!ということが言い伝えられてきた。ロックミュージックならそれでも良いこともあるだろうが,他のジャンルの音楽の場合、それでは通用しない。また、響きすぎるホールでは,明瞭度を上げることができない。電気音響では無理という考えもおかしい。ロサンゼルスにある教会,クリスタル・カテドラルは,残響時間が4.5秒もあるのに,ディレイマシンと数百個のスピーカを用いて非常に明瞭な拡声をしている。明瞭度の悪いホールでは,一つのスピーカシステムで分担する拡声範囲を狭くし,音圧レベルを下げることが明瞭度を上げることになる。

 もっと簡単な例として,講演会などで話している内容が不明瞭なとき,レベルを上げることを考えるなということである。拡声レベルが大きすぎていることが多々ある。このようなとき,レベルを少量下げると良くなることがある。また,イコライジングの面でも,明瞭度を上げるために低域をカットして高域ばかり上げてしまうといった傾向にあるが,日本のホールのほとんどが,残響音を感じさせるためなのか(安物のエコーマシン的発想)、高域が延びすぎていて,これが音を濁らす原因とな

っているので,そのようなホールでは髙域をしぼって,中低音を上げぎみにするなど,そのホールの特性にあわせて拡声することが大切である。建築音響と電気音響は互いに融合させてこそ,楽器が建物の響きの助けを借りて本来の音色を作るのと同様,電気音響装置,つまりスビーカも建物の響きの助けを借りてこそ,満足する音響を創造することができるわけである。

 建築音響は天然調味料,電気音響は化学調味料,そして音響家は料理人。新鮮な材料をいかに味付けするかは料理人の腕にかかっている。調味料だけの料理はおいしくありません。大衆が劇場へやってくる大きな目的は,人気歌手や人気役者の顔を見ることである。そして,同一場所に大勢の聴衆が居合せる楽しさでもあり,また一過性の面白さである。ベテラン歌手の熱唱を味わえるのも劇場やホールなのである。

 ホールの音響の魅力とはどこにあるのかを考え,それを創っていくのが,私たち音響家の使命ではないだろうか。 

ハリウッド・ボウル
ハリウッド・ボウル

19822月号 出演者/観客/音響家

 

 AKG社の技術者シップル氏は,最近の劇場音響シンポジウムの中で,「MSワンポイントマイクロホンによる録音は演奏者が楽器のバランスをとるのであり,マルチマイクロホンによる録音はミクサ一の感性となる」と話をされていたが,いずれにしろ,演奏者とミクサ一とが互いに信頼関係になければ成り立たないことは事実である。

 ところが,録音機器がめざましい発展を遂げていることから,アメリカの演奏家のユニオンでは,コーラス等のエフェクタは演奏家の職を失うことになるとして,真剣にその対策を考えているという。

 技術の進展は,ミクサ一のブライドにまで影響を与えようとしている。マルチトラックレコーディング技術は,本来の自的から逸脱して,ミクサ一に感性は必要ない状態になりかねないのである。テレビの生放送でないかぎり,演奏者は自分の演奏を自分でミクシングできるようになったのである。演奏者にしてみれば自分の感性を最大限に表現できるのだから,最高の喜びといえるだろう。

 ホールの音響について考えてみよう。

 ホールにおいては,演奏者は自分の演奏を客席で聴くことはできない。逆に音響スタッフは,本番中のステージに上がることができない。それぞれの立場を経験できない者どうしが集まって,一つの舞台を創っていくことになるのである。

 ここで必要なのは,ミクサ一の感性や技術ばかりでなく,それにも増して信頼関係が蜇要となってくる。この関係は,再現性のない舞台芸術の世界では永遠に続くことであるから,演奏家たちは感覚的にも技術的にも,そして人格的にも信頼できるスタッフと仕事をしたいと望んでいる。また観客との間にも信頼関係がなければならない。ホールにやってくる観客は,すでに前金を払って来ているのである。どんな内容になるのかも知らずに,プロデューサや出演者をはじめ,スタッフを信頼してホールに来るのである。

 さて,この信頼関係を成立させるためには,それぞれの立場を謙虚な気持で受けとめ理解することと,自分の立場を明確に主張する必要がある。よくみかけることだが,音響技術者が聴衆を理解せずに,音響技術だけを持ってスタッフとして参加した場合の失敗は目に見えている。音の性能を良くし,トラブルもなく,ということは前提であって,それから先がミクサ一本来の仕事である。

 悪い方の例であるが,これは10年程前のことである。ある大物俳優がSR 

をするなと主張し,音響技術者はしていないと報告。その俳優は,その監視役として,自分の弟子を私の後ろに居させ,この件について制作会議まで開かせたという滑稽な話が残っている。この原因をたぐってみると,この俳優がいつも出演している劇場は残響の少ないところであって,初めて出演したこの劇場は残響が多いので,それをSRによるものと勘違いをしていたのである。

 ところが,ネズミが猫の首に鈴をつけにいくようなことで,この理由を大物俳優に伝えにいく人がいない。ますます音響と俳優との間には不信惑が募るばかりである。それ以来,音響が何を言っても,その俳優は言い訳としかとらなかった。ところが,ある日,舞台の裏で出待ちをしていたその大物俳優から、効果音が小さいとクレームを言ってきた。そこで私は,観客に聞かせるために後ろに反射板を置いてやっているので,舞台の裏には聞こえないのは当然のこと。私は観客を主に考えているのだという旨を一通り説明した。それ以来,私に対するクレームは皆無になった。この機会を得るまでには,5年の歳月を要してしまったことは残念である。

 商業劇場では,ワイヤレスマイクを持つことが役者の地位(人気)のバロメータとされているので,必要もないのに争ってワイヤレスマイクを持ちたがる。よく,このようなときにダミーのマイクを持たせることがあるが,何んとも後味の悪いものであるし,長続きしない方法である。

 ジャズコンサートのリハーサル中,ステージからトランペット奏者が叫んでいる。「音響さ〜ん,ミュートを付けたときもレベルを上げないで,このままにしておいてね」。

 トランペット奏者は、リハーサルが終ってミクサー席に飛んできた。「いつもの癖で言ってしまって御免。いつもフラットにされちゃうことが多いのでね」・・・  

 演奏家と音響家のコミュニケーションは大切である。

 ところで信頼されるホールの音響家としての心得をいくつか考えてみよう。まず,音響の専門家は音響の技術について詳しいのは当り前である。それを理由に,音響に素人の演奏家に対して偉そうにいることは禁物である。逆に演奏について,音響家は素人なのである(本当は理解していないといけない)から、お互いにアドバイスしあえる仲になりたいものだ。

 また,私たちは演技や演奏について評論することは慎むべきである。客席の片隅から「今日の音響はヒドイね」という呟きが聞こえてきたときのことを思えば理解できよう。

 そして最も重要なことは,私たちの仕事は完全無欠でなければならないのである。プロデューサの立場から考えれば,成果がなかったものには報酬がないのは当然である。経験があっても,努力をどんなにしても,成果が得られなければ評価されないのである。たとえ、どれほど素晴らしい音響機器を徹夜で仕込んでも,本番で音が出なければNGである。エレベータマイクで歌うことになっているなら,歌手は信じて、その位置に立つであろう。たとえ、それが故障であっても赦されることではない。

 完璧にリハーサルをして完璧に本番をやることが,海外では鉄則となっている。

 わが国では,そこを情緒でごまかすという風習になっているので,海外のミュージシャンの公演では,この次元の違いによるトラブルが多いようである。

 完全無欠のステージをこなすことができれば,信頼される音響家になれる。そこに向って仕事をしていれば,うまい言い訳を考えたり,媚を売ったりする必要もないわけである。いずれにせよ,舞台はお互いの信頼で成り立っている。

 『相互の信頼と愛情により,一つのアンサンブルを作る』とは,私が初めて手にした演劇入門書の中にある一言である。

 

音響と音楽と

 職業上,知人などからオーディオ製品選びの相談をうけることが多い。無責任にに答えるわけにはいかないので、カタログを一通り解説するだけにとどめ,あとはデザインの好きなものを求めるようにアドバイスすることにしている(なにごとにおいても,日本人は自分で選ぶことのできない人が多いのだ)。

 さて、スピーカシステムは音楽家が推薦するものが良いのか,オーディオ評論家がすすめるものが良いかという質問を受けたことがある。そういえば,音楽関連誌とオーディオ雑誌では、その評価の対象が異っている。

 人間には5つの感覚がある。その一つが聴覚であるが,聴く音が同じであっても聴取者の立場,つまり職種によって感じ方や評価は異なる。音楽評論家は,いかに音楽を忠実に再生されるかで,その価値判断をするであろうし,オーディオ評論家なら,その耳は測定器の役目をしているわけだ。

 現在の医療技術は進んだといわれているが,それは工学や化学の技術が進んだのであって,大事なことが忘れられているという。精度の高い測定ができ,分析結果が素早くデジタル的に示され,それにより正常範囲かどうかを判断する。この分析データは検査方法によって違ってくるという。そのようなことから,アナログ的な打診や聴診も同時に行わなければ誤診につながる。ホールの音響家の耳は,ときとして計測器の機能を持つ必要もあるが,楽器音や言葉を弁別することができなければならない。つまり、音楽や演劇を理解できる能力を要するということである。それは,計測器には現われない部分なのである.

 世はデジタル時代である。具体的な数字で性能を問題にすると,その数字がすべてであるというような錯覚に陥ってしまう。人間は音を聴いて感じ,そして考えることのできる動物なのである。音を判断するには長年の経験も必要であるし,持ち前の感性を用いなければならないのである。

 音楽教育を徹底的に行ったため,絶対音感に優れた人がいる。発振器で発信音を聴かせると,ドレミで表現する。後は音楽がどこから聴こえてきても音階に変ってしまって,全く音楽を楽しめないのである。

 ところで,ホールの観客はどうであろうか。このことは,ホールの音響技術者として,考えておかなければならないことである。ずいぶん昔の話になるが,このような笑い話がある。コンサートが終って,後片付けをしていると,観客のオーディオマニア風の一人がやってきて「今日の音は最高に良かった。ALTECですか,JBLですか」「いいえ国産の〇〇〇です」「ああ,それで・・・」(こいつ,音楽でなく音を聴いていたのだ)

 別のコンサートでのこと。「今日はベースが少し低かったですね」「いや,少し出過ぎかなと思っていたところですよ。どうしてですか?」「私は学生時代にべースを弾いていましてね。ベースが大きくないと満足できないんです」「?」

 先日,東京の渋谷公会堂で,ヘッドホンで聴くコンサートが開催されたという。いずれスタジオのミュージシャン用モニターシステムのように,観客が自分で音のバランスをとるといったコンサートもお目見えするのではないだろうか。

 ホールは,オーディオショップの試聴室でもなく,研究所の測定室でもないはずである。

 「音響は音楽に非ず」ということを肝に銘じておくべきではないだろうか。


19823月号 機器/音響/音楽

 

 某メーカーの営業マンがやってきて,新製品の発表会を行うのだが,今度はよくなりましたので是非,聴きに来て下さいという。それでは,今までの製品は失敗作だったのか? そんなものを最良の音などと言って売っていたのか? ところで,どこがよくなったのか? この営業マンのいう良い音とは何を指しているのだろうか?   などと疑問だらけである。

 以前に,大手芸能ブロダクションのプロデューサが次のようなことを言っていたのを思いだした。「音響会社の人たちが,よく売り込みに来るのだが,必ずといってよいほど,今度は良い機材を導入しましたので,ぜひ仕事をやらせてほしいという。良い機材とはどういうものなのか。私は,客席に満遍なく同一音の音色で届けることをできるものが出現したとき,新製品として評価する。ステージの音響を,音響機材の性能で評価するのはおかしなことで,感覚で勝負してほしいものだ。ましてや物量にものをいわせるなどナンセンスなことである」

 しかし,最近ではその反省期に差し掛かったようで,かなり音響家の感覚を重要視する傾向になってきたが,舞台の音響家とメーカーとの間で,音についての認識にかなりのギャップがありそうだ。また,音響家と制作関係者との間にもギャップのあることは事実である-

 いずれにしろ,  ホール音響を物量的にとらえているところは共通点のようだ。果して,暴風雨や炎天下に強く,その音が隣の町まで聴こえることが良い音罾システムと言い切ることができるだろうか。それは騒音と呼ばれるものではなかったか。

 ここ数年,内外を問わず,音響家に対して指南の場であるべきはずの新製品の発表デモンストレ一ンョンで,その期待はみごとに裘切られ続けてきた。それは,その製品が悪いということではなく,その特長を出しきっていないことが多い。つまり,その特長を十分に把握した上での音創り(ミクシング)が望まれるところである。

 楽器店は楽器を供給する側であって,音楽はミュージシャンが創造し,ホール音響は現場の音響家が創るものである。
 現在,音響を志す若者が急増している。音輕専門学校は盛況といわれているが,そこで修得するのは技術の専門知識だけになってしまうので,そのままホールや劇場の現場では通用しない。舞台では舞台人としての知識が必要であるし,それなりの人格が必要である。「指揮とは音楽的教養である」とは,かの偉大なる指揮者力一ル・ベームの言葉である(大町陽一郎著,楽譜の余白にちょっと:新潮社刊)。また、プロのオーケストラならば,出だしのサインをするだけで,指揮者がタクトを振らなくても終りまでいってしまうものである。しかし,オ一ケストラのアンサンブルを維持と,楽曲の解釈者として指揮者は必要なのである。したがって,指揮者は音楽的知識と音楽的教養がものをいっているということのようだ。

 ベームの言う指揮の真髄を音響家に当てはめてみてはいかがだろう。音響機材をセットさえすれば音は出る(たとえ素人でも)。しかし,それが音楽的に,演劇的に成り立たせるには専ら音響工学のみでなく,広い知識と教養が大いに影響してくることだろう。

 ある著名な建築音響設計者は,良い響きのホールを作ることが生きがいであるといい。少しの偏見も持たずに邦楽,ジャズ,クラシック音楽などの多くを自ら楽しむことを決して怠っていないという。

 現在のホール音響(SR技術)は,いまだに物量的,性能的に価値判断されていることは事実である。しかし,これだけ技術が進歩し性能がよくなってくると,雑音や歪が少ないとかいうことだけで音の良さを判断することは,間違っていると思う。これはレコードや放送についても同様だろう。ディジタルだからいいレコードとはいえないし,ステレオ放送だから良いとは限らない。要はミクサ一の感性である。

 性能が良くなれば,それだけミクシングの上手,下手がストレートに聴取者の耳に届くものである。数年前,多重放送が開始されるとき,ミクサ一たちは機械が良くなったと喜んだものである。これでミクシング技術は向上するだろうと,視聴者の期待も大きかった。確かに,多重放送を聴いてみるとフェーダの上げ下げまでリアルに判明でき,ミクサ一の個性が伝ってくるのが楽しい。しかし,その反面,やっている方の苦労は倍加されたことであろう。ミスなどすると筒抜けである。

 デジタルオーディオディスク(CD)の実用化も間近である。ますます,ミクサ一の感性や音楽そのものの中味が問われることになる。

 ホール音響においても,機器の性能は向上し,堅牢なものとなったいま,音響家にとって電子技術の専門知識はほとんど必要ないという傾向に来ている。それより

も,いろいろな音楽をどれだけ理解できるかということのほうが大切で,音響機器はブラックボックス,という認識でよい時代になったのではないだろうか。

 ミュージシャンなどの方が,エフェクタ等の音響機器をうまく使いこなして,その効果を十分発揮し,自分たちの音楽を思う存分表現しているのをよくみかける。私が舞台の世界に入ったとき,最初に先輩から電子技術はすべて忘れるように忠告されたことを思いだす。それは,技術を過信することと,機器の規格範囲におさめようとする萎縮したオペレーションをしないために,感覚で行けというアドバイスであったのだろうと解釈している。

 舞台は平均的な成果を求めるものでなく,ましてや画一的なことをやるべきでない。したがって,音響家が無線従事者のごとく資格で云々することが疑問に思えてくるだろうし,もはやサウンドサービス的な発想では取り残される時代がやってきたようである。

 私の親しい放送局のミクサ一で,メカニックについてあまり興味を持たず,4桁の商品番号など全く覚えない人がいる(私は現在でもそうであるが)。彼は自宅にステレオ装置なども置かない主義で、音楽は生で聴くべしということである。しかし,絵を描かせれば玄人はだしで,その他の何ごとにも偏見を持たず,人生を楽しんでいる。そのようなことからか,ハートのあるミクシングに定評があり,長時間の音楽番組はまことに,ドラマチックとなるのも当然といってよいだろう。

 

音量/音質/調和

 私たちは音を評するとき,大きい・小さい,かたい・やわらかい,軽い・重いなどという。しかし,これはあまりにも抽象的であいまいであって,相対的なものである。つまり,何dB以上が大きいというのか,どういう音が軽いというのかは決められない。他の音と比較して感じているのである。音楽でいえば,ビアニシモがあるからフォルテシモが感じられるということである。映画や演劇では,結末のたった一行の台詞を言いたいがために,長々と退屈な場面を見せられるが,クライマックスは,それまでが淡々としていた方が返って活きてくるものである。

 コンサートでもクライマックスがある。そこは一般的に音量が最大となるのが常であるが,そのレベル設定をしておく必要がある。当然,最大許容レベルはそのSR装置で決まってしまうが,その範囲内でいかに全体を仕上げるかということが重要である。冒頭から最大レベルで始めたらどうなるかは容易に理解できよう。
 人間の聴覚は,数分間で音圧感や方向惑がマヒしてしまう。コンサートの冒頭で受けたショッキングな大音量も,時間経過とともに,レベルが下がったように感じてしまうものである。それならば,少しずつ観客の耳を盗みながら下げておいて,要所,要所でァクセントをつけながら,長時間のコンサートをドラマチックにする心理的なテクニックを使ってみるのも必要ではないだろうか。本来,コンサートの構成そのものがこのようになっているし,演奏者も心得ているものである。ジャズなどの一流演奏者の中には,演奏の方でコントロールするから,SRレベルは一定にしておいてほしいと言ってくる演奏者もいる。常にフラットになるように操作するのがSRであるかのような考えは,演奏者に対して失礼である。日本のミクサ一を信用していない外国のあるドラム奏者は,マイクを林立させて,ただ目一杯大きくするだけのミクシングに怒り,不必要なマイクを自分で取りはずしながらリハーサルをしたという話もある。

 SRの音量が大きくなると,当然ハウリングが生じてくる。ハウリングが生じると,4ウェイや5ウェイのスピーカシステムを使っていながらも,イコライジングをして高音域,低音域をカットしはじめるものである。この結果,ギンギラギンの音になってしまうが,このような音でも,毎日聴いていると慣れてしまうのが聴覚の恐ろしいところである。ここで,観客の耳とミクサ一の耳とにギャップがでてくるわけである。しかし,ブロのミクサ一は,これは今,流行っている音であると逃げ口上を言うものだから,観客とのギャップはますます深まるばかりとなる。これがレコ一ドだったなら売れないだろうが,コンサートは料金前金払いなので問題ない。

 ところが,最近の観客は音楽の内容に合わせて,会場が多少遠くても,音響条件の良いところに出向く傾向になってきた。あまりにも音響条件の悪いホールではSR技術にも限界があると,観客側が見抜いたようである。

 話を戻すが,音圧だけで音楽の迫力は出せない。最も重要な中低域の欠落を見のがしてはならないのである。適度な音量と適切な音質,この二つの要素のバランスをとることがSR技術の重要なポイントである。そして何よりも,各楽器が良く調和のとれたSRは,音量の大小にかかわらず,心に響く音楽を伝えてくれるものである。

 


19824月号 創造と美意識

 

 マズローの「欲望五段説」というのがある。

 それを私たちの世界の目で見ると次のようになる。

 第一段階は生存の欲望であり,第二段階が種族保存の本能,第三段階は財産保全の本能となる。ここまで満たされると第四段階目に社交の欲望が現われ,第五段階目に自己表現の欲望が考えられる。

 最終的には、大勢の人に美しいものを見せたり聞かせたりして,喜びを与えたいという欲望にかられるのである。これが創造の喜びということになるのであろうが,創造とは他者優先,自己否定に近いものという考え方も成り立つ。

 人間があるものを見て美しいと思う基準を探るのは,主観もあり個人差もありむずかしいことである。しかし古来のすばらしい芸術作品は,多くの人が一致して,高く評価することができるものだ。

 骨董屋のオヤジが店員に品物の見立ての修業をさせるとき,毎日できるだけ上等品を見せ続けるそうである。そして、頃合いを見計らって,その中に格の落ちる品物を交ぜて,それを発見できるようになれば一人前であるそうだ。

 これは,優れて美しいものを見たり,聞いたり,味わい,それに感動した人間は,それ以下のものには満足しなくなるということである。逆に,下らないものばかりを見聞していると,高度のものを突きつけられても見過ごしてしまうものらしい。インスタントコ一ヒーのCMではないが「違いがわかる」ことが一人前になるパスボートといえるだろう(この時代のネスカフェのCM)。

 音響についても同じことがいえる。素人演奏をミクシングする難しさは並大抵ではない。修業中のミクサ一が素人演奏をミクシングすることは,あまり技術の上達につながらないものである。素人の演奏というのは互いの調和に気をつかわないし,気を遣うゆとりもない。出しやすい音は目いっぱい出し,出しにくい音はそれなりにというわけで,音楽性を持たせるところまで行きつかないのである。これが歌手であるなら,音楽上の起伏と関係なく自分の声が出るがまま歌い,伴奏からとび出したかと思うと次は潜り込んでしまう。これでは、ミクサ一にとってはたえず調整をしていなければならない破目になる。このようなことから,いい手本といい仕事に恵まれることが大切のようである。

 音響家にとって,良い音楽,つまり良いミュージシャンに巡り合うことは何よりも幸運なことである。これから音響家を志す人は,良いレコードを聞き,一流のコンサートに足を向けるよう心掛けていただきたいものである。

 自分の持っている美意識以上のものを創造するのは不可能であって,20,000円もするオペラの切符の価値はオペラの美を理解できるかどうかによって決まるだろう。観たい芝居は自分で切符を買ってこそ,その値打ちがわかるというものである。

 よく野外ステージで見掛ける光景であるが,観客が入っているのに,いつまでもマイクチェックを行っていることがある。昨年の夏,遊園地(西武園)のステージで子供のためのイベントが行われていたが,一部と二部の1時間以上もの間,ワイヤレスマイクのチェックをしていたのには驚いた。何のためのチェックかは知る術もなかったが,長時間そのミクサ一は騒音の提供者であったわけである。もちろん本番の音響は “推して知るべし である。ディズニーランドと比較して日本の遊園地の次元の低さにつながるところなのかも知れない。音響技術者の存在を意識させるのも結構だが,舞台裏をさらけだすようでは,美意識の欠如を示しているようなものではないだろうか。

 ホールや劇場の音に携わる者が,舞台を歩くとき大きな足音をたてたり,口笛を吹く癖があったり,1時間ごとにアラームの鳴る腕時計を持つのも困ったことである。音を大切にすべき者が雑音源となるようでは困る。

 あるプロモータはくらし着くコンサートやオペラの観劇にくる人たちの中に,ウォークマン(カセットテープ携帯録再器)を開演寸前まで聴いている若者をみると,あぜんとすると言っていた。本当にホールの生演奏(響き)を味わいに来ているのかと考えさせられるという。

 現在,ホール音響はポピュラー音楽のためのものという傾向にあるようだが,基本は限りなく生演奏に近づけるSRとして考えるべきではないだろうか。よく芸能プロダクシヨンのスタッフからレコードの音に近づけてほしいという注文がある。かといって最近のホール音響はすべてレコードが基準という短絡した考えは危険である。これは、ミクシングはその人の感性で行うべきであるなどというと,自分勝手にやることなのだと早合点するようなもので,そこは基礎的な事柄を把握した上で成り立つことを忘れてはならない。

 SRの音をレコードの音に近づける云々は,よくでる話題であるが,その歌手がタレントとの部類に入るのか、エンターティナ一なのかということになるのではないだろうか。前者のステージショーの場合は,23か月ごとに発売する新曲レコードの販促キャンペーンとも考えられるから,レコ一ドを再生しているようにすることも必要なのかもしれない。そういえば歌うときの振りが,衣裳がドレスでも和服でも人形のごとく全く同じであることに気か付く。レコードもステ一ジも同じパッケージで考えている芸能プロダクションの姿勢が窺える。後者の場合は,ステージでしか味わえないダイナミックな歌い方をするもので,レコードの常識という型にはまったお定まりの歌い方ではなく,感情の移入にも伸びやかなものがあるものだ。

 舞台芸術は,虚を実でみせるものであるとよくいわれる。虚の表現がより写実に見えるのである。感情の移入も度がすぎて本物になってしまうと困ることがある。泣く場合で本当に泣いてしまったなら,台詞が言えなくなるだろうし,囁きを日常の囁きの音量でやったのでは観客にきこえてこない。本物の泪で歌えなくなるのは演出に基づいたレコード大賞のテレビ中継だけのことであって,舞台では通用しない。

 音量をなるべく一定にして(言葉を伝達できる範囲内に),囁きが表現でき,または叫び声を表現できるように修練しなければならないものなのである。悲しい歌を微笑みながら歌える歌手になりたいと語った人がいたが,ここが舞台芸術創造のむずかしさでもあり喜びでもあるのではないだろうか。最近,テレビの人気タレントを舞台に登場させ,「タレントは女優に非ず」とヒンシュクを買っているようだが,舞台はそんなに生易しいものでない。舞台芸術の美は限りなく広く深いものである。

 しかしながら,今の世の中は独創性の尊重だとか、創造性の開発だとか、いううたい文句が非常に多いのだが,現代の日本文化のほとんどが,一見高価で貴重なものを安価で簡単に手に入れられる大量生産画一文化である(藤井康男著:創造型人間は音楽脳で考える:プレジデント社)。

 人がやるからとか,付き合いのためだからとか,それをやることによって一定の所得や地位のある人間に見られたいからとか,そういう本質以外の動機で趣味をやる人たちがブームをつくっている。しかし,これは日本人の80%以上が自らを中産階級と意識する社会での,見せかけの精神でしかないわけである。これは,新間の劇評で劇場に客が殺到させるという傾向をみても明らかである。


ホール音響の功罪

 ホールの音響の良し悪しは,そこの設備だけによって決まるものではない。ホールの運営に当っている人たちが,いかに舞台芸術・文化を理解して育くんでいこうという意欲があるかによって左右されるものである。この点について現場の管理者が矢面に立たされることが多いが,逆に被害者の立場にあることがある。実は、市とか県の間違った文化行政の制約によることがほとんどである。

 ポップスのコンサートの音響がひどいというクレームを良く耳にするが,この原因がミクサ一の技術によるものではなく,ミクサ一が被害者であることがしばしばある。ポップス界において本当の加害者は,芸能プロダクションの制作スタッフ(マネージャー)であることが多い。大音量へのエスカレートも,実はプロダクション側に責任がある。ほとんどの制作スタッフは,音量を上げろという指令を出してくる。この楽器を下げろという言葉を聞くのはまれである。下げろという言葉を知らないのだろうか。たとえば,ギターを上げろといい,そうすることによりマスキングされた他の楽器を上げさせ,次から次へと音を飽和させて,最後には自分は逃げてしまうという無貴任なブロダクションのスタッフが多いのである。

 歌のうまくないアイドル歌手の場合は,必ずといってよいほど,バック(伴奏)を上げてくれと言ってくる。それに反して歌が聞こえないと文句をいう。もっとひどいのになると,横から手を出してフューダを動かし始める失礼な制作スタッフさえいる。このような環境の中で,音創りをさせられる音響スタッフはみじめなものである。

 海外のミュージシャンが来日したとき,音合せで同行した音響技術者とミュージシャンの口論をよくみかける。互いに対等の立場で一歩もゆずらないのである。これが良い音楽を創るうえで大切なことなのであるが、残念ながら日本では通用しない。ミュージシャンと互角の力と感性をもつことに努力しなければ改善されないだろう。音響家のユニオンやライセンス制度だけで改善できる次元の問題ではないような気がする。

 あるホールで行われたビッグジャズバンドの競演を,客席内のミクシング席で観ていたことがある。関係者次々と注文を出しているバンドもいた。しかしながら,音響技術者の感性にまかせ,なに一つ注文をつけなかったバンドの音は最高であった。SRに頼ろうとしない自信もさることながら,うまい演奏は音響家が小細工する必要もなく,名演奏をわかる音響家は小細工しようとする考えを起さないものである。

 


1982年5月号 「はね返リ」考

 

 「はね返り」「ステ一ジモニター」「フォールドバック(fold  back略してFB)」は同意語である。舞台上の歌手や演奏者などに必要な音を聞かせることである。

もちろん,歌いやすくとか演奏しやすくする手段として用いる。スピーカによるものとヘッドホンを用いる場合とがあり,単に「返り」とか「モニター」などと略していうことが多い.

 現在,FBはポピュラーミュージックにおいては不可欠のものであるが,これは大音量指向またはマルチトラック録音の副産物である。これを弊害というエンジニアもいる。たしかにFBなどなしで演奏していた頃を知っている音響家にとって,めんどうな作業が増えたものだと思うはずである。(仕事が増えたと喜ぶ人が多いようですが)

 FBには,いくつかのタイプがある。一つは客席内の音響状態を把握することができないので,客席のシュミレーシヨンとしてのモニター方法である。コーラスグループの場合には,あらかじめボーカルマイクのすべてを同一状態に調整し,固定したままで,それを基準に自分たちでアンサンブルをとる。メインスピー力にも同一ミクシングバランスで送出しているから,全体の音量に違いがあっても,客席と舞台とが同一状態とみなせるわけである。(この手法は寺内タケシもやっていた)

 次のタイプは,マルチトラック録音のオーバーダビングで、たとえばドラムを先に録音してそれに合せて他のセクシヨンを次々に別トラックに録音していくもので,演奏の基準となる楽器だけを中心に聴くためのFBである。リズムの校正用である。

 そして,もう一つのタイプに,演奏者自身がその音に酔うためのものがある。一般的に演奏者は我儘な人が多く,個々のモニターバランスの好みが異なってくるので,演奏者の注文をすべて満足させようとするのは至難の業である。したがってスタジオでも舞台でも,FBのバランス調整には多くの時間を費やしてしまうものであり,下手すると演奏者とエンジニアとが険惡な状態になるのもこのときである。お好みのバランスで送らないと,すねてそっぽを向いて演奏したりする演奏者もいる。演奏者とはデリケートな神経の持ち主が多いものだ。そこで,演奏者とコミュニケーションをとることの上手なアシスタントエンジニアがいると,なごやかに音合せが進行してよい演奏を引き出すことができるし,エンジニアも本来のミクシングに没頭できる。信頼できるアシスタントに巡り合うことも,いい仕事をする上で,非常に大切であると痛感することが多い。

 スタジオでは,この無駄な労力を軽減するために,それぞれの楽器の音をいくつかのグルーブにして送り出して,そのバランスは演奏者が各自勝手に行うシステムを導入している。これでレコーディングエンジニアは,やっかいな作業が一つなくなったことになる。ステージでも,このシステムを採用しているところもあるがヘッドホン(近い音)に慣れてしまうとスピーカでは物足りなくなってしまうものである。

 ところで,ボーカルのFBに対する依存度はますます高まるばかりである。今では,挨拶がわりに「モニター一の音は大き目にね」である。 FBとは麻薬中毒のようなもので一度味わってしまうと止められなくなる。音量はますますエスカレートするばかりで,いつもの量では物足りなくなるのである。ひどいのになると,本番中にメインスピーカがNGになってもFBが客席の音量をカバーし,そのまま進行できると冗談を言いたくなるぐらい大きいのである。

 そのようなわけで,コンサートの音がなぜかスッキリしない理由の一つとして,FBの影響を挙げることができるだろう。FBをうまく整理することで,全体の音響の仕上がりがかなりクリア一になるものである。舞台の両サイドに置いたメインスピーカを含めたすべてのスピ一力が,舞台の床を振動させていることから起る明瞭度の欠如により,結局はFBスピーカの音量を上げざるを得ないということもある。このような障害は根源から絶たなければならない。メインスピーカによる床振動を軽減することにより,FBスピーカの負担を軽くすることだってできるのだ。イコライザによる補正はプログラムソースを変化させるだけで,悪影響を及ぼすことが多い。ただギンギラギンにするだけで明瞭度の向上を図ることは,逆効果になることがあるので要注意である。

 現在では,FBを要求されるのはポピュラーミュ一ジッタに限ったことではない. 実は,それ以前に歌舞伎の舞台でも用いられているのである。国立劇場では15年前(1966年)のオーブン時から,下座音楽演奏者のためにはね返りシステムが用意されている。現在では,日本舞踊の場合に,鳴物演奏者が自前の簡単なワイヤレスマイクシステムを持ち込んで行うケースが多くなっている。ときどき,その音量を上げすぎて,上手で演奏している音が下手から聞こえてきたりするといった困ったこともある。

 訳がわからないのが、実は浪曲なのである。なぜかマイクはC-38で,FBはバカデ力というのが浪曲師の共通点である。マイクをなめるようにして語るので、湿気でC-38を立て続けに3本も壊わしたという話もある。どこかカラオケスナックで歌っている酔客を思わせる。

 FBの必要な例ばかり挙げてきたが,あまり必要としない,いや全くない方がいいという場合もある。

 ジャズなどでは,場内からの返り(反射音)を聴いてマイクとの間隔を調整して音量を加減するから必要ないと言われることがある。

 次のような失敗がある。

 ある演奏家が,「このホールは演奏している本人によく聞こえるようにできているのだろうか。私は良く聞こえないと演奏しにくいのだが……」というので,FBビーカを舞台袖に用意したところ「これは駄目だ,聞こえない」というのでFBレベルを上げると,「全然聞こえない」というのである。マイクの位置を替えたり、いろいろとやってみるが,どうも話が嚙み合わない。あれやこれやの後,FBスピーカを切ってくれという。「やっと聞こえました。これでいいんだ」客席から反射して来る音を聴きたかったわけである。

 オペラ歌手の間で,耳タブの中央をふさぐように細工して歌う方法が流行しているという。自分の声が豊かに聞こえてくるからである。一種のFBである。多目的といわれるホールの音響には潤いが欠如している。また,最近は電気音響を重要視し過ぎているので,ステージ上から客席の響きの状態を推測できないで困っているそうである。客席内の響きを聴いて自分の声量を調整したいのだが,それができないのでやりにくいといった苦情を聞くことがある。それで苦肉の策として耳タブFBを考えたそうだが,「これは最もいけないことだ,ただ自分だけが酔っているだけで,自己満足に落ち入り,結局,これでは観客を酔わせる域に達することができない」とあるベテラン歌手は嘆いている。ステージでは自分の演奏や声を客席で聴くことは決してできないので,客席の状態を少しでも探りたいというのは,出演者が持つ共通の意見ではないだろうか。その代用としてFBを用いたのでは真の解決とはいえない。

 ステージにおけるポピュラーミュージックのFBは,リズムの確認の要素が強い。FBを要求するセクションとFBされるセクションは通常,オーケストラの場合にはフォーリズムと  コーラス,ボーカルが中心となる。 この中で,他人のことはおかまいなく目いっぱい演奏する性格の持ち主は,なぜかドラムとギター奏者に多い。この人たちに限って,自分の演奏音が大きいから,FBの音量も目いっぱい要求してくる。

 ジャズの演奏会で,いつもはFBを要求しないトリオにエレクトリックギターがプラスされ,ピアノとドラムの間に配置された。案の定,ギターはギンギラギンの演奏だ。少し抑えてもらおうかと思っていると,ギター奏者がやってきて,こちらのアンプの容量が小さいのでもっと出してくれと言われ,アシスタントと顔を見合わせてしまったことがある。結局,自分の音しか聴いていない。本番中の決定権はエンジニアのものと心の中で開き直る以外に手段はない。

 続いて,ドラム奏者が「ギターで聴こえなくなったのでピアノの音をFBしてほしいと言ってきた。これは納得できた。

 ボーカルのF Bは,ヘッドホンというわけにはいかない。自分勝手に調整して下さいとも言えない。通常はステージ脇からのモニタースピーカと前面の床に置いたスピーカを用いることになっている。現在の歌手は歌謡曲の場合でもほとんどが難聴になっているのだから,これらのスピ一力から出てくる音もすごい迫力である。それを扱っているエンジニアも難聴になっている人が多いのだからたまらない。音に埋れていないと歌えないのであるからしかたないが,全体的に音楽をまとめあげなければならない。エンジニアにとって,頭の痛い問題である。より良い音楽を引き出すためには,できるだけ満足のできるFBを提供したいものである。

 クラッシックのオーケストラでは指揮者がいるということもあるが,演奏者は自分の音だけでなく,他の人のアンサンブル音を聴きながら自分の音量を確認してバランスをとっている。しかし演奏者は客席で聴くようなバランスで聴くことができない。常に偏った音,アンバランスな音楽を聞いていることになるのである。

 FBがオーバーになればなるほどアンバランスな状態で音楽を聴くことになる。全体的に音楽を聴く状況の中にいないわけである。演奏者の聴いている自分の楽器音と聴衆の聴いている音とは当然違っている。

 本来は演奏者が自分たちで全体をまとめていくべきだが,FBを乱用した音楽の場合は,エンジニアが音楽を創造することになる。


1982年5月号 音の方向定位

 

 ホールや劇場の音響を、より自然に聞かせるためには音の方向定位は最も重要である。

 コンサートであるならば音源とS R音の方向をより近づけたいものであるし、芝居の効果音ならば舞台装置に合わせて小鳥の声は窓の外から、虫の声は草むらから聞こえてきたい。効果音の場合は、それぞれ目的に応じてスピーカを仕込めば良いが、コンサートのSRとなるとハウリングという障害

があるのでやっかいである。そのため、マイクロホンとスピーカの

距離を十分とらなければならない。当然、マイクロホンは音源に近づけてセッティングされるのであるが、音源とスピーカの位置は、大音量SRになればなるほど離れてしまうことになる。つまり、ステージサイドのスピーカはそれぞれ左右に離れてしまうだろうし、プロセニアムスピーカはステージから遠ざかって客席側に設置されている。

 したがって、日本の多目的ホールのほとんどが、客席の前から5列目ぐらいまでは、ブロセニアムスピーカというよりも天井スピーカという感じになっている。

 ところで、人間はかなり明確に音の方向や距離などを認識できる。その要因については、左右の耳に生じる音圧の差によるという説(レベル差)、時間差説(位相差)、音色差説などがある。これらの説は、それぞれの実験結果によって裏付けられていることから、実際にホール音響に応用されている。電気音響を意識させないSRとして、しばしば用いられているのが、音源からの直接音とスビ一力の音量とのレベル差による手法である.

 例えば、台詞のSRの場合に生の音声よりも音を大きくしなければ、役者の方向から台詞が聞こえてくる。この場合は上下の方向知覚が左右の方向知覚よりも鈍いということから、ブロセニアムスピー力を用いたほうが良い。

 次に音質を調整することで、よりSR音量を大きくしても方向定位を役者のロもとに持って行くことができる。調整のポイントとしては、高域をおさえぎみにすることで方向定位を音源に近づけることができる。また低域では方向定位にあまり影響はないが、電気音響による人工的な音になって違和感が生じ、自然感を損なうことになるので注意しなければならない。

 次にハース効果の応用がある。つまり観客の耳に最も早く到来する音の方向に音像が定位するという現象を利用することである。この場合、SR音量を肉声音量よりも約10dB程度まで大きくしても、この現象は生じるとされている。このようなことから、遅延装置(ディレイ)を用いてSR音に時間差をつければ、聴衆にSRを意識させないことになる。なお、ハース効果は遅延時間が5msec30msecの間で生じ、50msec以上の時間差になるとエコー状態となって明瞭度に障害(ディスターバンス)を来すことになる。良く見かけるステージ両サイドに置かれたスピーカは、 10m以内(30msec以内)の間隔でセッティングすることは不可能と思われるので、どちらかのスピーカに近いところでディスターバンスの影響をうけることになる。

 音の方向定位を行うとき、レベル差、音質差に加えて、時間差を併用すれば、自然感がいっそう増すと共に明瞭度も向上するということは容易に理解できる。

 欧米のホール音響では、遅延装置を上手に使いこなしているが、わが国の多目的ホールでは、いまだにステージ両側にスピーカを設置することで、音像がブロセニアム方向(ステージ上方)に行かないことだけに重点をおいている。最近観たミュージカルでは、あまり髙くない位置にプロセニアムスピーカがあるにもかかわらず、ステージ両サイドにスピーカを積みあげ、音像をステージ面に下げようとしているのだが、ハウリングの点からか上手の台詞や頃は下手のスピーカから、下手のピアノと台詞などは上手のスピーカから送り出しているのをみておどろいた。  

 このように基本的に音の方向を混乱されると違和感を生じ、観客と役者との親近感を失ってしまう。

 小ホールにおいては少ないが、ステージ両サイドに積み重ねることで、いろいろ問題が起こる。

 その一つは、スピーカを音源に近づけて舞台方向に音像を定位することと、客席の音圧分布を均等にしようとすることは相反するということである。

 大きなホ一ルともなると、大きく距離をへだてた位置から音が出てくるわけであるから、客席の中央で聞いても音像が中央に結ばないとか、音がぼやけてしまうことがある。そして、両サイドに居る一部の観客にとって視覚的に障害となるとか、客席全体を考えると音圧的にバラツキがでてきてしまう。この問題を解決するのに、ステージ上方部の中央の1点にスピーカシステムを集中させたセントラルクラスタが使用される。数年前、多目的ホ一ルのプロセニアムスピーカは2チャンネルステレオ方式が多いが、中央だけのモノラル方式が望ましいという提案があった。それには、まず1点に基準となるメインスビーカを設定し、客席前部とか2階席の下の席や3階席の後部のデッドポイントには、その部分だけをカバーするスピーカを設置すれば良い。そうすれば、客席前部には近くのステージスピーカから音が到来し、次にプロセニアムスピーカからの音が聞こえるので、音像は舞台面に定位するだろう。音レベルは客席前方だけをカバーするレベルでよい。2階席下の部分には小型スピーカを設置し、メインスピーカと時間差をつければ、音は舞台方向に定位する。3階席後方もしかりである(図1)。

 しかし、これは固定設置型の場合には望ましいが、ツア一を主とするグルーブが音響機器を持ち込んで行う場合には面倒なことである。結局は、中央の客席だけを最良の状態とすることで妥協しなければならないだろう。

 音圧はスピーカからの距離が2倍になるごとに1/2になるという法則(逆二乗の法則)がある

から、スピーカから近いところと遠いところを分割することにして、客席前部をカバーするスピーカは広指向性のものを用い、客席後方と2階席をカバーするスビーカはなるべく指向性の狭いスピーカを設置して、それぞれレベルのバランスをとるという処理をしなければならない(図2  )。
 しかしながら、観客はそれほど音の方向を意識していないものである。演劇において、虫の声や波の音が天井から聞こえてきたりしなければ、ほとんど見過ごしていることが多い。

 ポピュラーミュージックでも、SR音がどこから聞こえてくるのか判明できないようにした場合、中途半端な方向性を持たせるよりも、逆に全く無意識に音楽に入り込むことができるのではないだろうか。それはSR透明感が生まれたようなものかもしれない。この場合、目で確認した方向から音が来ていると思い込んでしまうだろう。とかく専門家はシビアに考え過ぎているが、一般大衆はそれほど注目していないということでもある。

 SRを意識させない方法として視覚的な点からも考えなければならない。それは音響機材を見えなくすることも大切ということである。SRをしていないのにスピーカが見えたりすると、していると思い込んでしまうことだってある。

 外国の劇場などでは、スピーカの取り付けが非常によく考えられていて、客席からはどこにあるのか判明できないようにカモフラージュされていることが多い。建築的な化粧がすばらしいわけである。そのような劇場やホールで、心地よいオープニング音楽が流れてくると、心がワクワクしてくる。このようなとき、音響ではなく音楽を聴きにきているのだ、ショウを楽しみにきているのだという実感が湧いてくる。劇場には劇場としてのあたたかい雰囲気が必要であり、音響機器の露出はあまりにも冷たさを感じさせ、そぐわないのである。

 観客にとって、手段を見せつけられるのではたまったものではない。コンピュータを導入しようが何百台のスピーカを設備しようが、それは舞台裏の問題であり、舞台芸術品の仕上がりに無関係なのである。舞台裏のからくりや技法がばれてしまっては、興醒めしてしまうというものである。

 

 現在、忘れられていることであるが、照明とか音響を意識させないよう心掛けることも大切ではないだろうか。舞台音響家に、舞台人としての自覚があるならば、性能追求ばかりでなく、総合的に舞台芸術の成果を考え続けたいものである。